和音
「和音について」ということなら、もっと構えて専門的な視点から書くべきか、とも思いつつも、日常の自分の気持ちで感覚として時おりよぎることから「気楽に取り扱ってもいいよな」そんな思いで書いてみる。和音に関するウンチクよりもっとストレートな表現を試みよう。和音の呼び名において一般に親しみやすいのはコード・ネームだろう。CとかGとかFとか。私の感覚では、「G7sus4」とか「Am7」とか「Cadd9」とかこのあたりのコードが、織り成すひとつの風景や抽象イメージとして、普段の生活イメージの中でも主格を取り囲んでいる、それか物事の隙間を埋めるのに常に鳴り響いている感覚がある。もっとも主格によりその物事の橋渡しや、時と時を結ぶのに垣間見る「ある感覚」としか表現できないものでもあるが。「Fmaj7」にしろ、「Fadd9」にしろ、C~Fへ、F~Gへ音の世界をつなぐ際、両方の領域が混ざるところでの表現に相応しいコードなのだが、主旋律をストレスなく導くようなために存在すれども、その勢いが勝ると主格をぼやけさせたり、その行き先を迷わせたりする。こういったことが私の思い込みに大変強く作用するところから、それら音の世界と普段の生活のコントロールに若干食い違いを起こし、それらが玉にキズ…いや、随分な欠点となっている気がするな、とも。
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