まぼろし
これは聞いた話。「唯ひとつの現象である『大いなるすべて』が、唯一どうしてもできなかったこと、それは己は一体どういう現象なのか、つまり己を己の外から知りたい、ということだった」「したがって『大いなるすべて』が次に起こした現象は分裂であった」「我々人間の意識に、己ではない他人という存在があり、また他人からは他人に見える自分自身が存在するのは、我々自身、つまり『大いなるすべて』がそうした選択『己を外から知る』をした経緯でこのような現実になっている」という。つまり「自分と他人が存在する」ということのひとつの証として。そして且つ「まったく同じ、という魂が2つ存在することはありえない」とも。これはある聞いた話を自分の言葉にしたものだからアバウトな解釈なところは申し訳ない、また自分の記述、表現に際し調べものもしない。ここまでを借り次に私の思いを綴る。前述のことが「そうなのだ」とすれば、自分から見える自分でない相手の何等かのことや、自分の心を相手に伝えることは、それらはそのまま私自身の真の望み、ということになる。現実、自分と同じということのありえない相手の心はその相手にしか理解できないのだから、これは裏を返すと、自分の心がどうなのか、を、まずは知るのはもちろん、その先の主題、それは、相手に対し相手が理解できる状態にまで自分の心がどうかを知りそれを実際相手に伝える、ということが我々の本当の目的となる。もし生きていることが「何かの目的を達成する」ではなく「まずはその目的を知る」という段階の状態であれば、本質的には「何も知らない」ところから始める以外最適なやり方はないだろう。時折、人が自身の存在さえまぼろしのように感じることや、実存自体に淡い感覚を持つのにはこういったことも関係あるのかな、ふとそう思ったので。
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