『自分』で『自分』のことを書いてみよう。ふと、そんな気持ちになったのは、『自分』を何気に振り返ってみて、『自分』が何かこう、ダメになっているような気がするところから、どうしてそんな気がするのか、『自分』に問いかけてみよう、そう思ったのである。『自分』を追い詰めてはいけないような気もするし、かといって、何か褒めたり、認めたり、時と場合によっては、『自分』を元気付けたり、勇気付けたり、たまにはそういうことがあっても良いような気がしないでもない。自覚もないし、記憶に残したり、何か日記につけるような、そんなやり方で、時々は『自分』をどうかしているのかどうか、そういう拠り所もないので、今は何かに弾き飛ばされているようにも思えなくもないし、かつてそういう『自分』をどうしていたのか、何も手がかりがないことに、今はただただ唖然としている。『自分』の書いてきたものはどうだったか。『自分』の残してきた結果はどうだったか。ところが、そういうところを見たい気はしていない。「自信」が欲しいのか。何かの「証」が欲しいのか。「自信」に満ち溢れているといいのだろうか。とくに「証」となるようなモノもないし、そこにも特にはピンとこない。このように、ここまで『自分』について、問いながら書いたことにも、何かありそうな気はしない。『自分』って何なんだろう。いや、『自分』が何かであろうとしている訳でもないようだ。では、ダメになっているような気がしたこと自体が気のせいなのか。ここまできたら「ダメかどうか」も、なんだかきっかけに過ぎないようでもある。深いことにハマっているような気もするし、かといって、浅いかどうか、も、中ほどかどうか、も、どうでもいいことのようだ。こんなに『自分』とは、掴みどころの無い物なのか。つかんでいる、か、手放しているか、も、なんだかな。『自分』よ、一体どうした?『自分』よ、大丈夫か?と、まだまだ続きそうなので、今はこの位で『自分』で『自分』のことを書くのは一旦終わりにしよう。
『自分』
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