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Ryoji Suzuki Memo

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限界



私がこの言葉『限界』について認識していることで。あくまでも自分の主観であって、それは自身のとても拙い感覚のことなのだけれども、割と低学年の頃から理系の科目が好きだった自分は、オゾン層の限界、地層の限界、測量の限界など、主に物理地質学的なイメージを多く持っていたため、それが身体的な「体力の限界」「跳躍距離の限界」などはまだしも、感情表現での「気持ちの限界」「我慢の限界」という風にも使われる言葉、ということを歳を重ねるごとに知るに至るようになった自分の生活環境や、友人等との会話でそれら『限界』というフレーズを体験するたびに、とてつもなく「悲しい」気持ちになっていたことに、ようやっとこのごろ気づくようになってきた。幼き自分にとっては『限界』という響きに無機質なものや、もしくは「まだ先には人知を超えた世界がある」という、想像やイメージが先立っていた、しかしそれとはどちらかというと相反するところにある、感情表現で使われることの多い、今の私にとっての『限界』という言葉。今では、先に述べたような幼き頃の壮大なイメージはほぼ消え失せ、ややもすると「嘆き」や「不満」、具体的には人の表情にある、「みけんに皺をよせた苦痛な表情」までもが浮かび上がり、その言葉を発するに至った当人の状況や事情などに同情する以前に、人の感情に対する「恐怖」のほうが先にたってしまう。ここまでのことは「これではイカン」と、自分の事を思う。それと、ここにメモしておきたかったのは、そういった、自分自身の「お気楽」「おバカ」のイメージ、人に言わせると、「幸せだね」など「皮肉」も言われかねない、自身の心や感情のあり方、言葉に対するイメージやその接し方、先入観、恐怖感、それらによって、自分が対応してきたこと、自分が発言した言葉の意味、それを受けたであろう、自分と接したどれだけの方々に「私のお気楽さ」故に不快な気持ちをさせたんだろうか、と、考えただけでも、なにか末恐ろしい恐怖さえ感じる。「人の感情」が恐い自分、なんとなく「そうなんだろうな」と感じてはいたものの、こういう言葉の一句にも、自分のこれまでの環境や、自分の主観に紛れ込んでいる自身のあり方に気づくたび、自身の拙さを思い知らされる。人によっては「ピュアだよね」などと、皮肉混じりの「褒め言葉」を頂戴することも少なくなかったのだが。


バカさ加減の『限界』とかも、ねemoji
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