順序って大切
自分の視界の狭さや歪みを知りつつある。どれだけ多くの人の在り方や気持ち、感覚を想像できても、実際は己の頭脳や知識範囲内の想像でしかない(ここで注意がいるのは「実際に知覚や感覚を伴った経験」という根拠があったにしても、それを無意識に思考変換したものなら、知識や考察・検証の当該化になってしまっている、ということなども)。それはたとえある人の「在り方、気持ち、感覚」を言い当てることができた、としても。また、言い得ずともある人の気持ちや心の痛みを十分に感じられた、としても。単に言えば自身が相手そのものに成り得ることはない。前述したたとえは、どこまで追求しても、ある人に対して演じるいわばその相手風な自身のイリュージョンもしくはコピーであって、それをあくまでも己が完璧に仕上げるのならそれは一つの特技ということだ。そのような錯覚に近しい自身の投影を自ら相手そのものにすり替えるほどのことができるなら、それは役者という一流の専門家にも成り得るかもしれない。人が人としてごく普通にあるだけのことなら、相手に自身を投影することより、相手のことの想像をするよりなにより、まず自分を知ることと、自分のことを相手に伝えるところから出来るようになればいい。そしてそこに想像は不要、まずは『今』自分がどうか、ということからだ。そして本当にそれができるのなら、相手の気持ちを考えたり、さらにもっと自分を知ってもらうためにも相手のことを知ろう、そういうことも意味を成してくるのだろう。と、思ったのが今朝の私です。
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