一年ほど前から、バンドの活動が日常の中心になったことで、『作曲』をする頻度が減少している。『作曲』にしろ、バンド活動にしろ、音楽という自分の生活における中心的なポジションであることには変わりないので、『作曲』する頻度が減少した、といっても、「やりたいことができていない」とか、マインド面において、「物足りない」とか、そういうことは特にはない。心の有様を音に投影する事自体は、音楽である以上、そのやり方や活動の違いに何か甲乙な感覚や意識があるかどうかは、自覚の上では大差はない。ただ、自分の内部感覚のことなので、はたから見て「どう見えているか」は、私を見た人の意見に委ねるしかないし、また自分がどう見えているか、というところも自身ではあまり興味はないかもしれない。今日(5月1日にこの記事は執筆している)は、楽器の練習を多めに取組んでいたところ、自然に『作曲』の作業に「移行した自分」と出会った。『作曲』のために、楽譜を書き出したとたん、最近忘れていた何かを見つけ当てたような感覚に包まれた。こうした、ひょんなきっかけで、なにか別のレイヤーが駆動するような感覚は、まったく苦労感やシフトチェンジを伴なわずに、すんなり馴染むことが予想される中に『作曲』という作業が自然と自身の日常に取り込まれていく、その時の「自分の時間の流れ」とは、自己におけるパラレルリアリティを、統合且つ総合的に見つめるという、その様な自分に気づいていたりもする。
『作曲』がとても好きな私
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