自分はものごとを考えたり、なにか行動を起こす際、『基準』という概念をしばしば用いることがある。それはまったくもって「自己基準」のこともあれば、なんとなく「漠然」でもあるが、「世間一般」を連想した「世の基準」ということもある。自分の言う「自己基準」とは、自分の今置かれている立場や、他の人がどう思うかなど二の次であって、自分が今どうしたいか、自分は何を見ているのか、に対し、「それをどうするか」「どうしたいか」「今どこにいるか」などを、自分の経験と想像でなにやら選択したり、そのときの直感みたいなところに時には身を委ねたり、強い意志でもって、なんらかの判断の拠り所にしているような中心点のことをイメージしていて、そこに「世の基準」という思考が加わったとき、慰め程度に自分に対して理窟や理由を補うことで安心したり、自分と世との感覚の乖離が大きければ、不安にもなったりしている様な点だ。時には、その「世の基準」を正義的にとらえて、そこに自分をすり合わせることで、あたかも「それが普通」とか「これなら誰にでも解ってもらえるだろう」という風に思ってみたり、そこの感覚を優先する事も日常では多そうだ。『基準』を見出すと、そこを中心にして反対な要素のものが現れたり、また「二極」的なことの真ん中に基準が置かれるような場合は、その中心に対して「円を描くイメージ」を連想する。その感覚連鎖に現れる「円のイメージ」の、自身を取り巻く色々な他のものごとへ「交わりたい」という連鎖を認めると、「円」から「球体」に形状が膨らんでゆき、ぼんやりと球体イメージを成してくるにつれ、所々「影」のように満たされていない領域が現れるようになる。すると、その領域を満たしたいがために、か、自分のまだ経験しないようなものごとに興味が湧いたりすることも、自分に『基準』をみる発想から、その先へ進もうとするきっかけを「自身から生み出す」、それがなにか不思議なバランス感覚となって現れる、そんな気づきを今ここに書き出してみた。
「点→線→面→立体」へ移行する感覚かもね
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