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Ryoji Suzuki Memo

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想像の中の相手を想う【最終回】



自分が自己の内で「相手の心」を想うのには、【第1回】の冒頭で私自身の書いた「実際に他人の心のうちのことはその他人に直に訊いた、としても、やはり他人のことであって、それを聴いた私がどうとらえるかは私次第でもあるから」ということをまず踏まえたい。そして、自分が自己の内で「相手の心」を想うのには、自身にとっていかなる理屈をもっても、自身これまでに培ってきた道徳観に基づいていても、どんなに正当性があっても、専門家による書籍内文句の引用であっても、宗教の教え、神の啓示、親や師の言葉であっても、自身で考えている中の状態では、相手にとっては、相手から見る他人による単なる「想像に過ぎない」というところに気をつけたい。だからと言って、相手に対し、相手の「相手にとっての心中として」実際にその心中を「訊いて」みたとしても、そうそう本当のことを教えてもらえるとも限らない。しかもその相手自身が「本当に自身をわかっているか」も、定かでない、さらには相手自身が自身のことで「誤表現」をするかもしれないし、自身について自己特有な「自己解釈」を持っているかもしれないし、それか「相手にとっての異なる相手による変化」をもつ「移り変わる自己表現」をしているかもしれないし、そこには様々なタイミングや時間経過において意図しない変化も、相手自身、私自身にさえ起こりうるはずだ。「相手を想う」ということ、それはつまりそんなに簡単なことではない。「相手にとって何がどうであるか」などと、自分が頭で考えること、まずそこにおける「想像」と「想像ではないこと」の違いについて、自ら自覚を伴うところ、その違いを知るところから始まるし、そこには何よりもまずそれらの違いや認識についていかなる判断をもつか、その判断をする最大の機関である自分自身、そこでの「自分自身を知る」という最大の難関が潜んでいる。私が今回表題に用いた『想像の中の相手を想う』とは、つまり「どんなに相手を想ってみたところで、自己の考えの域を超えない限りそれらの想いは己の想像にしかすぎない」ということであるのと、本当に相手を想うのであるのならば、まず「自分自身を知る」という大仕事にも取り掛かっていかないとね、ということを私自身に向けて書き残しておきたかった、そのためのである。


『想像の中の相手を想う』【第1回】【第2回】【第3回】emoji

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