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Ryoji Suzuki Memo

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正直



今から書くことは自分の内なる感覚のことである。私はあまり会話が得意でない、そう思うことの多い人生をこれまで送ってきている。「会話が得意でない」というのは、本当にそうかどうか、を、自分自身にジャッジしてきた、ということでもあると思う。「自分自身へジャッジ(判定)」をする感覚は、自分自身の防衛本能だったかもしれない。「自分自身の防衛本能」であるかどうか、の判断は、今の段階では自身定かではない。ここまでの流れをみても、実は「定かでない」ということは本当だと思う。自身に対する「会話が得意でない」という判断に至るきっかけや出来事は、からだの感覚で思い出すことができる。ひとつには会話自体の殆どない幼児期を過ごした、ということが思い当たる。またあるときから会話に対し「劣等感」を感じていた筈で、その劣等感に基づく心理状態から、「会話に対する恐怖」や「会話に対する萎縮」という感覚はこれまでも常に心の内に、それとからだの感覚に有していて、それの影響にもよってか、あるときに会話をしていた、としても、そのケースのほとんどが「失敗」それか「嫌な思い」に該当していたことが今からでも自身に対し頷ける。今こうしてこのようなことを書きながらも、こういう風に思うのである、「自分は『正直』にものを言ってはいけない」「自分がそれでもチカラを振り絞って口を開いたとしても」「ほとんどの話が誰にも聴いてもらえず」「その嫌な思いは」「正直に話せば話すほど」「自分がその話し相手、もしくは他人、自分以外の皆より劣っている」「という判断をするしかない反応しか得られない」と。ところで『正直』にものを言う、というほど、『正直』にものを言わない、ということがそんなにあったのだろうか。たぶん、実はそんなになくて、もしくは自身の言うところの自身にとって意味する『正直』ということ自体が、『正直』であるかどうかという以前に、単に『正直』そのものであった筈だ。つまり自身にとって、選べるほどの悠長な物言いや判断はできなかっただろう。あるとき、『正直』にものを言わない、と、これまでの自身に対し決意したとして、その上で何かを話したそのときに、状況説明やことの経緯、発言の経緯、などをしどろもどろでもよいから、伝えようとして、気持ちの核にある自分独特のなんらかの表現よりも、そういった説明や経緯によって人は話を聞いてくれるものだ、と、もし気づいたのなら、自分はやはり「だから」「自分は『正直』にものを言ってはいけない」と判断した可能性がある。こんな風に省みることでも、決定的であった筈の、「会話が得意でない」ということ自体、根拠の乏しい「自分自身へのジャッジ」の影響や、思い込みから自身を制約していた可能性もある。諸々ともまだ定かではないけれど、ここに書いていること自体も、単に『正直』な話である。


へぇ、そっかぁemoji
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