『理由』があろうとなかろうと「その事実は変わらない」として。とあるその事実に対し、事後に『理由』付けをしてしまうことがある。とある事の先に進むにあたり“きり”が良いかどうか、その「“きり”の良し悪し」を大切にする、そのために『理由』付けをする感じは、なにか自分の力ではないところからきているように私は感じている。「“きり”がない」「“きり”が悪い」または「“きまり”が悪い」とかは、自分の内側では“他者の声”で聞こえてくるイメージがある。とは言っても、自身を省みて見て「パッと思いつかない」「覚えがない」にしろ、自分のことでも、普段「“きり”の良し悪し」で何らかの判断はしていそうだ。その“他者の声”、自分には複数人の声としてイメージされるのだが、そういった声が自身の周りからすぐに連想されるのは、ひとつには自分こそが「“きり”がない」ことを実際よくしているのであって、事実その声が聞こえる現場に居合わせている自分、つまりその私に向かって周りから投げかけられている、その対象がつまりは“自分”なんだと思っている。こんな回りくどい表現をすること自体私が自分に対し既に自身のことで『理由』付けをしているという典型だ。なんか面白い。
話題がループしているよ
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