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Ryoji Suzuki Memo

memoRyoji Suzuki image (メモ&ダイアリー)は Ryoji Suzuki の日々の心の足跡。自分向けのメモですが公開しています。良かったらご覧ください。ブログはこちら⇒ねむれないあなたへ

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自分の目から見える「世界観」がある。それとは異なる、自分ではない他人の目から見えるであろう、これもまた「世界観」があるはずだ。ある一瞬やある一点、ある断面で稀にその「世界観」が合致することは、稀ではあったとしてもそうは珍しいことではないはずだ、と思う。私から見える自分の「世界観」では、たとえば任意の相手に対し、自分と同じように見えているのだろうな、と感じることは実に少ない、と実感している。それらは、ある物の色や形あるものの形状のこと、学校で学んだような常識や知識における、だいたいは人の目から同じように見える共通して表されるような物事の話しではない。もし、その「世界観」について、私が「たとえば・・・」などと表すとするなら、ひとつには「心」のことである。もう少し立ち入った表現をたとえるなら「心の動き」のことである。さらにもう少し踏み入ったことを書き表すなら、「心の動き」の、そこに至る、それかその動きに関する「前後のようす」や「変化のようす」「進化のようす」などのことである。押し並べて「気持ち」や「その人のあり方」「意志」「意識」「感じ方」などとも言い表してみてもよい。また「自己だけのこと」とか「全体を見ようとしている」とか、「特定の条件下」において、とか「窮屈」であったり「大きく見て」とか、その人なりの「定義」や、たまたまのタイミングでの、それかタイミングによっての「変化する瞬間」や、「動じない」とするような「意志の強さ」「固さ」反して「もろさ」「儚さ」、回りの状況に対する「柔軟さ」までも。「過去の生い立ち」や「経験」「夢や希望」なども含まれるであろう、「心」や「気持ち」「感じ方」の「現実」において、常に「世界観」が同じ、それかその「同じ世界観」が、いつまでも変化しない、などありえないだろうな、と、自分は考える。こうして私が自分の「世界観」を表そうとするなら、一見「取り留めのない」ことになっているだろうな、と思う。私にとって「取り留めのない」ということは、それはそれで「ベース」だ、とも自分は考えている。「取り留めのない」ところから、もし「取りまとめる」とするなら、そこにまた新しい「世界観」が登場するのだろう。この「取り留めのない」ことは決して「否定要素」ではないはずだ。漠然と自分がここで感じるのは『バランス』という作用があって、実はその『バランス』というところにひとつの指針があるように今は感じている。『バランス』のことは書ききれない。で、まさしく「取り留めのない」メモをここにこうして残しておく。


「取り留めのない」という表現類語emoji
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